夢であいましょう

昭和36年から始まったNHK の「夢であいましょう」は、中嶋弘子さんの上品な司会に黒柳徹子さん、渥美清さんなどのコミカルな絡みがあって、そこから歌に繋いでいくスタイルで、当時まだ小学生から中学生にかけての私にとって、土曜日の夜10時が、まさに夢のような時間でした。
中でも中村八大さんのピアノのコントや、歌のバックのおしゃれで豪華なサウンドが何よりの楽しみになっていました。
この番組から数々のヒット曲が生まれましたが、私的には北島三郎さんの「帰ろかな」が好きで、今でもこの歌を聴くと胸がジーンと熱くなります。
話を戻すと、この番組の中で坂本九さんが歌った「上を向いて歩こう」が大ヒットして、この波がやがて海を渡ってアメリカでブレイクし、九ちゃん人気も手伝って、世界の「スキヤキ」が生まれました。
それ以来「スキヤキ」は日本を代表する歌として、今もなお世界の人々に親しまれています。
その偉大な作曲者である中村八大さんから私がいただいた説教は、その後に続く私の音楽人生に、大きな意味を持つものになっていきました。
その時ほろ酔いだった八大さんは「俺が自慢できるのはブラジル音楽祭で金賞を取ったことだ、なぁはねおか、お前、仕事しろよ、仕事」と言われました。
実は、1966年、作詞:永六輔、歌:江利チエミ「私だけのあなた」で八大さんはブラジル音楽祭最優秀管弦楽編曲賞を受賞されていました。
確かに「上を向いて歩こう」を聴いた時、まず最初の衝撃はそのサウンドであったことを今でもはっきり覚えています。
「何て広がりがあっておしゃれで希望に満ちたサウンドだろう」と思いました。
当時、世界のサウンドをリードしていたヘンリーマンシーニ、フランシスレイ、といったキラ星のごとき受賞者の中の一人が八大さんだったという事です。
つまり世界水準のサウンドだった「上を向いて歩こう」は、八大さんが最初から、世界に出していく青写真にアクセスされていた曲だったという事が後になって分かってきました。
要するに八大さんが言いたかった事は、歌謡曲、ポップス、などの枠や、売れる売れないにとらわれずに、その時自分に与えられた役割を最大限果たす「仕事」をしなさい、という事だったのだと気づきました。
その後知った八大さんの足跡は、あれだけ名を馳せた方とは思えないほど派手さのない、まさに黙々と歩まれた仕事一筋のものでした。
風のように私たちの心に爽やかさを運んで去った短い人生でした。
不思議な事に八大さんは、まだかけだしで、しかも初対面の私を、まるでずっと前からの後輩のように扱ってくれました。
まさにあの日は私の人生にとって珠玉の一日でした。
そして、大切なのは、自分がどう評価されるか、分かってもらえるかではなくて、携わるプロジェクトが創り出そうとしている青写真に、自らの限界を超えて、世界水準を視野に入れて、いかに全体のために貢献できるかだと教えてくださったのだと思います。
こう見てくると青写真は、スッキリとしていて力強く、どこまでも希望を広げていくものだと思います。
全米のヒットチャート、キャッシュボックスNo 1になった唯一の日本の曲、そしてこの曲が戦後空白になっていた日本の認知度を上げて、現在の位置に繋げる役割の一端を担い、日本と世界の人々の心を繋いだ事は間違いない事実だと思います。
中村八大さんが私に伝えようとしていた仕事とは、そのような意味ではなかったかと思えるのです。
その頃私は、ジョセフィンベーカーさんの前座でツァーに出ました。
その大阪公演が終わった後、私はベーカーさんの楽屋に呼ばれました。
ニコニコベーカーさんの第一声は「今日のあなたの歌は何なの」でした。(ウ〰怖!)
またもやこの続きは次回をお楽しみに…。

羽岡仁

Share:
Copyright Jin Haneoka. All Rights Reserved.