七色仮面

人のエゴにはどんな条約も法律も契約も何の効力も持たない、ただの紙屑でしかない。
北朝鮮のICBMが日本のEEZ内に落ちました。
ロシア軍が不法占拠の北方領土で演習をしています。
いよいよウクライナは他人事ではなくなってきたようです。
私が幼い頃、世界秩序を守る良心と信頼の象徴であった筈の国連、その情けないほどの無力を、生きている間にここまで見る事になろうとは思いもしませんでした。
今、私たちは人の中にある闇を目撃しています。
しかし同時に、その戦火の中にあっても自らの命を顧みず、病人や爆撃を受けて生死の境をさまよう人々を、懸命に助けようとする医療者や砲弾の中、懸命にガレキに埋もれたケガ人を助けようとする消防やレスキューの人たちの放つ、眩いばかりの光を目撃しています。
私はその光こそ、人間の本性だと確信しています。
さて、本題に戻る事にします。
私は日本のポピュラー音楽学校の草分けである、アンミュージックスクールの、作編曲とボーカル実技を担当することになりました。
まず作編曲のクラスでは、加古さんが書かれたジャズ理論のテキストがあったので、それを使って授業を始める事にしました。
ところが、生徒はポケーッとして、全く反応ナシの子と、質問しまくりの、社会人…。
作編曲科と言っても出来立てのホヤホヤで、授業を受けたい生徒の都合のいい時間帯に合わせて、1クラス2〜3人に分けてありました。中でも高校卒業したばかりの子と、音大卒で高校の音楽教師をしていた30代の女性のクラスでは、同じテキスト自体無理がありすぎで、しかも生徒は電気ピアノを前にして授業を受けるのですが、ギターのコードは少し弾けますという子と、ピアノバリバリの音楽の先生が二人並んで受けてる授業ってどうすればいいの⁈というスタートでした。
最初の授業でジャズ理論のテキストを使うことが無謀だと分かったので、2回目の授業では、まず一人一人生徒の話を聞くことにしました。
この授業を受けてどうしたいの?
すると、高校を出たばかりの子は杉山清貴のファンだという事で、杉山清貴みたいになりたい、と言いました。
一方音楽の先生は、ポップスの作曲家になりたいと思っていたけど、どうすればなれるか分からなくて音楽雑誌を見てたらこの学校の記事が載っていて、加古隆さんが学長ならと思って来ました、との事でした。
それを聞いて私は、「授業」という考えを捨てました。
私自身1200円のギターで、見よう見真似で作曲を始め、デビューした後、必死に勉強してニーズに応えているうちに、気がついたらスコアを書いて、スタジオで指揮してた、という人生だったので、何もクラスの2人を一緒にしなくても、今その人に必要な知識やスキルを別々にやればいいんだ、と思いました。
ここでも学校の授業とはこうあるべき、という形から解放されれば、道はありました。
そのように決めて授業をしていくうちに、生徒と私の会話が増え、気がつくと若い子と音楽の先生がいい感じで話すようになっていました。
そして驚いたことに、2人の先に曲を作ってきたのはギターのコードが少し弾ける子の方でした。
これには音楽の先生もビックリ!
勿論、その子は譜面はまだ書けなかったのですが、曲になっていました。
音楽の先生も喜んでくれて、私を含めて3人しかいないクラスは一気に賑やかになりました。
音楽の先生が、「難しく考えすぎかなぁ」と言ったので、「考えるより作っちゃった方が早いという事だね」と私が言うと、ギター少年が「鼻歌でいいんですよ」とちょっと調子に乗って言いました。
私はデビュー以来狭い業界の中を行ったり来たりしてたので、久しぶりに「シャバ」の空気が新鮮だなぁ、という想いに浸っていると、電話が入って「作詞お願いしたいんだけど、明日打ち合わせいい?」と別世界からの電話、このギャップにうろたえながら、気持ちを切り替えて、ある時は作曲家、ある時は作詞家、またある時は歌手、はたまたある時は講師となって…、という七色仮面か多羅尾伴内のような生活が始まりました。
そんなある日、一本の電話が入って、私の生活は一変する事になりました。
毎度ながらこの続きは次のお楽しみに、何卒よろしくお願いいたします。

羽岡仁

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