七色仮面II

毎日のニュース映像に映し出されるウクライナの街から日が経つにつれて色が消え、都市によっては一面灰色となり、そこで何千、何万という数の尊い生命が失われ、今この時も尚失われ続けています。
そのかけがえのないお一人お一人のご冥福を祈らずにはいられません。
さて、アンミュージックスクールには東京校と京都校があり、新学期が始まる前に、その2校の水準を揃える打ち合わせに私も出席したのですが、その席上、その年を機にそれまでのボーカル科を刷新したいという学校側の説明があり、打ち合わせに行くと、亀渕由香さんに紹介され、ミーティングとなりました。
亀渕由香さんは石井好子さんとも親しくされていたので、私の事もよくご存知で、すぐに打ち解けて話がまとまり、私がまとめたリズム別の課題曲を使い、ヴォイストレーニングを加えて本格的なヴォーカル科「ヴォーカルカンパニー」として新しく出発することになりました。
そのような流れの中での一本の電話は京都校からでした。
内容は新しいボーカル実技のモデルレッスンをして欲しい、というものでした。
私は京都校でレッスンをした後、他の講師にも見学してもらって定着させるためにしばらく週一で来て欲しい、という事になり、東京と京都で授業、残りの日を使ってスタジオでの制作の仕事と、1日も休みのない状態になりました。
すると時間は瞬く間に過ぎて、やがて1年経つ頃には私の京都校は定着してしまいました。
後に分かったのですが、私の教え子にレッスンを継がせる計画だったという事で、結果はまさにそのようになりました。
話を戻して、人間の適応力はすごいもので、その年以来、それこそ盆と正月以外1日も休みの無い年が続く事になりました。
振り返れば、鳴り物入りでデビューした後私は、自分の少ない経験と引き出しの中から苦し紛れに曲を作り、レコーディング、テレビ、ラジオ全国回り、コンサート、営業、を繰り返し、ただひたすらヒットを狙い比較競争に明け暮れる、孤独な日々の中で戦っていました。
シンガーソングライターを止めてからは、いろんな仕事で世界がひろがり、遂には何十人もの生徒を、どうすればいいところを引き出せるか、伸ばしていけるか、常に一人一人の顔が心から離れない日々に変えていただきました。
気がつけば、制作の仕事ではディレクターのオーダー、タレント、学校では生徒たち、家庭では子供たち、私の心の中は定員オーバー満員札止め状態になるほど私以外の事で一杯になりました。
しかし今振り返ると、この学校での講師生活を含む30 年間は、私にとって珠玉の年月となりました。
気がつけば私は、ほぼ自動的に出会う仕事と出会う人の可能性を考える習慣ができていました。
そして今、私はある事を始める事にしました。
そのある事とは?
これまた次回のお楽しみに、何卒よろしくお願いいたします。

羽岡仁

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