牛の歌

中国、ロシア連合の爆撃機が日本の周りを編隊飛行したり、北朝鮮がICBM と変則軌道ミサイルを同時発射したり、日本の領海内の尖閣諸島周辺漁場から、中国海警の重武装船によって日本の漁船は排除されたりしているようです。
政府にはウクライナを対岸の火事とせず、是非とも私たち日本人の生命と財産を守ることに、検討ばかりしてないで、真剣に具体的に取り組んでいただかなければならない時が来ているように思います。
さて、奇跡と言われた2次大戦後の日本の高度成長時代以降1970年代ぐらいまでは、今のテレビCMと同じように、映画館での映画上映の合間に、ニュース映画、そして20分ほどの長さの企業宣伝短編映画なるものが上映されていました。私はデビューして間もない頃、その映画に主演したことがありました。
それは雪印乳業の宣伝映画で、北海道の富良野にあった広大な牧場をお借りしての撮影でした。
私は牧童の役で、牛のエサやり、乳搾り、体拭きなどをやり、実際に出産の手伝いもやりました。
放牧地での牛追いシーンでは、同じ方向に向かって歩いていた牛たちが、一斉にくるりと反対に向きを変えて、私の方に向かって走り出したので、慌てて逃げて、何とか踏み殺されずに助かった「事件」もありました。
その映画の大切な宣伝の場面は、仕事の後のバーベキューで、私がうまそうに牛乳を飲むシーンなのですが、私は牛乳が苦手なので、とても辛い撮影になりました。
しかも、何度もやり直しになって、ついに私は肉を一口も食べられないまま、「はいカット!」となりました。
そのシーンに、バーベキューを食べる役で、近くの児童養護施設の子供たちがエキストラで出演していたのですが、撮影が終わった後、引率の先生が子供たちの書いた詩を持ってきて、この中で曲がつけられる詩があればつけてもらえますか?と言われ、渡されました。
その時私は、正直、めんどくさいなぁ、と思いましたが、「大丈夫ですよ」と言って受け取りました。
読んでみると、それらの詩はどれもみなみずみずしく、とても自分には書けないような詩ばかりでした。
その中の一枚の詩を読んだ時、涙が出てきました。
「牛のひとみがぼくを見た ぼくも牛のひとみを見た ガラスのような目 大きなひとみが ダイヤモンドのようにきらりと光った」
そしてその詩を読んだ時、既に曲は出来ていました。
なんて素直な詩だろう、と思いました。
その時私は「めんどくさい」という想いを「いやいやちょっと待て」と横に置いて、シュークリームの夢のような展開になってるなぁ、と思いながら、「やってみよう、もしかすると、この延長線上に本当の仕事があるのかもしれない」と思ったのでした。
そしてこの作曲が、フリーになってからテレビ番組の音楽を担当させていただくきっかけになっていた事が、今は納得できます。
つまり自分事から全く離れて曲を作った初めての経験だったという事です。
自分から離れても作曲ができたという経験は、作曲=仕事という新しい次元に入っていく第一歩だったという事です。
さらにテレビ番組の音楽という仕事の後、さまざまなオーダーをいただくようになっていった時、歌や番組の音楽や、アニメ、CMのオーダーにお応えして何度も書き直してOK をいただく、ということが仕事になっていって、やっと私は自分が社会人になった感覚を持てるようになりました。
さらに企画ものやアニメ、CM の歌をレコーディングしていく中で、歌手と紹介されても、普通にサラリーマンと紹介されるのとの差を感じる事が殆どなくなっていきました。
私にとって音楽を仕事にしている事と、普通に生活することとが全く矛盾のない事になって、やっとプロの意味が分かってきたという事だと思います。
つまり、工作機械を使って金型を作っていた父と私は、その時点で同じ次元の「仕事をする人」になったのだと思います。
こうしていろんな仕事をさせていただく毎に、私は社会の現実が少しずつ見えてくるようになっていきました。
そしてピアノは仕事にとって必需品となり、スコアを書くことも当たり前の段取りになりました。
私の人生の第一段階は、こうして当たり前の段取りで作業をする、作詞、作編曲業、兼歌手業という社会人として始まりました。
何かしら、未来に光が見えてきた思いでした。
そして、それは人生の仕事への第一歩でもありました。
次には人生の仕事への第二歩目が待っていました。
その第二歩目は、次回に譲りたいと思います。
次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

羽岡仁

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