ブラスバンド

2019年に中国武漢市から新型コロナ菌による肺炎が国を越えて広がって以来、世界はそれまでの非日常が日常となり、推定約1800万人の方が亡くなり、2022年2月24日、ロシアによるウクライナへの侵略が始まり、戦争によって、営々と築き上げられた美しい都市が爆撃により破壊され、一面灰色の廃墟と化し、ロシア軍による、ウクライナ国民の大量虐殺が起きるなど、まさかの事態が連続しています。
さらにロシア軍の黒海封鎖によりウクライナの穀物等の輸出が止められ、世界的な食糧危機が必至となりそうですが、一体この事態は、私たちに何を呼びかけているのでしょう。
さて、その時には意味のないものとしていた出会いが、後になって振り返ると、あの出会いがなかったら、この仕事に繋がっていなかった、という出会いがあります。
と言うより、そういう出会いしかなかった、と言った方が合ってると言えます。
中学に入った時、クラブ活動の申し込みで、私は水泳部に入ろうと思って学校に行ったら、ブラスバンド部が練習していました。
7人しかいなくて、どう聴いても下手くそだけど、何故か私はその場に釘付けの状態になりました。
しかもよく見ると、楽器は古くなってくたびれたものばかりで、
魅力ほぼゼロ、どころかマイナスのポンコツブラバン。
なのに心の磁石の針が、ビシッと引っ張られてしまいました。
早速入部申し込みをして渡された楽器は、ピストン部分の溶接が外れ、針金で縛りつけられ、メッキは全部剥がれて、ところどころへこみがあり、全面真鍮の地金がサビて、くすんだ黄色のバリトンホルンで、あっちこっち破れ、底が抜けたケースに入れられていました。
それでもファーストインプレッションは「本物のラッパだ、すご~い」でした。
そうしてブラバン一筋の中学時代の終わりに、顧問の井上先生が我が家に来てくださり、母に、私を音大に行かせるために、高校を音楽専門高校への進学に薦めてくれたそうです。
母からは、そのずっと後、私がビクターからのデビューが決まった時、初めてその話を聞かされました。
中学時代のブラバンで、部長になった私は、井上先生からスコア(総譜)を渡されて、先生のいない時、練習の指揮をして、バンド練習をしていました。
以前にもお話しさせていただいたように、事務所とレコード会社を辞めてフリーになって最初に来た仕事は、テレビ東京の「走れサラブレッド」という番組の音楽の作編曲と、テーマ曲の作詞作編曲、歌でした。
この時初めてスタジオ録音の指揮台に座ったのですが、見よう見まねで書いたスコア、20曲ばかりの録音と、一人残ってテーマ曲の歌ダビングをしました。
今思い返してみると、中学のブラバンが本当に貧しい地域だったので、楽器が消防や警察のブラスバンドで古くなって余ってる楽器を貰ったりしていたために、井上先生は私たち生徒の個性に合わせていろいろ工夫してくださり、ない楽器のパートを少し書きかえて、ある楽器でカバーしたり、中々できない生徒に、体操のようなユニークな練習をさせてできるようにさせたり、壊れかけた楽器を治して使ったり、当時ヒットした「上を向いて歩こう」やアニメの「鉄腕アトム」をご自身でスコアを書いて演奏させてもらえて、生徒に夢を持たせてくださって、毎日練習が楽しくて、私はブラバンをやるために学校に行っていました。
さらに井上先生は、熱心に学校にかけあってくださって、新しい楽器を入れてもらえるようになって、部員も私が中2の時に18人になり、中3の時には32人になって兵庫県中学体育大会にも初めて参加できたり、地元商店街をマーチを演奏して行進し、神戸新聞に載ったり、ついには神戸国際会館で開催された米国シアトル市、神戸市の姉妹都市イベントに出してもらったりしました。
その神戸市の中学ブラスバンド代表の混成バンドで、私はスウィングジャスにアレンジした、ナポリ民謡「帰れソレントへ」のトランペットソロを吹かせてもらいました。
当時、私の家庭環境は最悪で、私にとって、地獄の家から天国(ブラバンのみ)の学校に避難する毎日でした。
しかし、今になって思えば、あの最悪の家庭環境がなければ、代表してソロを吹かせてもらえるまでトランペットに夢中になっていなかったでしょうし、何と言っても井上先生に出会えていなかったら、スコアなど見る機会もなかったので、テレビの仕事は即座にお断りしていたと思います。
この中学時代にビートルズと出会い、1200円のギターと出会い、井上先生とブラスバンドに出会った体験がその後の作詞作曲活動、遂にはメジャーデビューに繋がり、スタジオ録音のオーケストラアレンジにダイレクトに繋がる事になっていました。
こう見ていくと、あの悪夢のような戦慄の日々、最悪の家庭環境すらをも含めて、どの出会いと出来事が欠けていても、今の私にはなっていなかった事が見えてきました。
過ぎ去った私のささやかな半生を顧みるだけでも、本当に偶然、たまたまという出会いも出来事もなかった、というのが今の私の偽らざる実感です。
そして、その一つ一つの出会いと出来事に対しての感謝と感動が、今になって、まるで湧水のように、心に滲み出てくる今日この頃です。
思えば私の人生は、数え切れない出会いと出来事がジグソーパズルのようにピタッとはまってできてきました。
次回も、中でも忘れがたき出会いと出来事を見ていきたいと思いますので、
何卒よろしくお願い申し上げます!

羽岡仁

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