友だち

安倍晋三氏が凶弾に倒れました。
白昼まさかの卑劣な銃撃。
死者に鞭打つをそのままに、安倍氏を執拗に人格否定し、尊厳を蔑める、人としての礼節をわきまえぬ大半の日本のマスメディアとは真逆に、米英仏独をはじめ、世界各国の報道は、故人の偉大さを絶賛する各国首脳の言葉、安倍氏亡き後の、世界の信頼と協働の牽引を懸念しているもので溢れています。
コロナ、ロシアのウクライナ侵略と続き、またもやまさかの事態が起きてしまいました。
2019年、中国武漢から始まったまさかのコロナパンデミックから、まさかの事態が連続しています。
時代は、私たち人類に、対立を作り出す世界問題の、根元的な解決を目指して、次の生き方の次元へ向かえ、と呼びかけていると思えてなりません。
さて、私の青春時代は政治の季節と呼ばれていたくらい、学生運動が盛り上がった時代でした。
世界的に見れば、「若者革命」と言われていましたが、要は大人社会への反抗、守られるべき、人としての基本的な道徳や、家族や共同体の秩序への反逆。
大人は自分の好き勝手に子供を作り、自分の思い通りに子供を支配している。
その大人に逆らい、社会を壊して自由になる事が、解放された自然な人間になる事だ!という論理(?)で、世界的なうねりが起こりました。
ただ、このうねりは、ワーッと盛り上がっては空中分解してバラバラになり、また別の場所でワーッと盛り上がっては消えてゆく、本当に花火のような社会現象でした。
ある意味で私は、そのうねりに本気で乗っていってしまった結果、デビューしたのかもしれません。
ところが社会はもっと懐が深くて、そんなハンパもんでも、受け入れる度量がありました。
そうしてデビューした訳ですから、その当時の意識では、結局スターになるか、乞食になるかの2択しかないとしか思えませんでした。
ところが、その感覚自体が私の狭い見方でしかなかったという事がだんだん分かってきました。
つまり、若者革命では社会貢献ができずに、幼く、物事の表面しか見えず、その表面が真実だと思い込み、反抗することが正義だと思っていた事が見えてきました。
これまで書かせていただいてきたように、私は、オーダーをいただいて、本格的に仕事をするようになった事によって、音楽ビジネスが多種多様にわたっていて、その一つ一つの役割を果たす仕事に、最善の努力をしている、目に見えない人たちが頑張って作っているのが、業界の生の姿だったという事が見えてきた、という事だと思います。
私の最初のマネージャーは、業界ではかなり目立っていた、前輝也さんという人でした。
アフロヘアで、カッコ良くて、仕事場では、よくタレントと間違われていました。
加藤登紀子を売り出したマネージャーとしても有名で、私がお会いした時は、当時飛ぶ鳥を落としていた(?)深町純を担当されていました。
その前さんは忙しい人だったので、現場にはあまり来られなかったのですが、人の繋ぎだけは絶対外さない人でした。
だからこそ私はいつも、結果的にはいい出会いを作っていただいていたのだと思います。
その出会いの中の一つ、みなみらんぼうさん。
らんぼうさんとは、先輩後輩であり、友人であり、ライバル(?)でした。
最初の出会いは確か吉祥寺のライブハウス、曼荼羅だったと思います。
その後、立教大学の学園祭もご一緒しました。
その日は楽屋でいろいろ話すうちにすっかり意気投合して、ステージの後で即、飲み会の約束をしてしまいました。
その場にいた、なぎらけんいちとも仲良くなり、それからというもの、なぎら君からも、たとえば「ゴキブリ酒作ったんだけど、飲まない?」みたいな電話がかかってきたりしました。
おそらく本人はほとんど覚えていないと思います。
何故なら、電話がかかってきた時は、ほぼ酔っぱらっていて、相手が誰だかよく分かっていない感じだったからです。
みなみらんぼうさんとはよく連絡を取り合っていた時期があり、その後2人とも忙しくなって、なかなか会えなくなっていったのですが、ある日電話がかかってきて、仕事手伝ってくれる?という事でした。
それは「夏のページ」という映画の中の歌のお話でした。
私は勿論「やらせていただきます」でした。
レコーディングは家族でスタジオに行って、らんぼうさんは、すっかりウチの子供たちの「おじさん」になってくれていました。
この仕事の打ち上げでは、まだ初々しい新人だった佐野史郎君が音楽の話をしてきて、すごく打ち解けて再会を約束しましたが、その後、彼はブレイクして、一躍ドラマには、なくてはならない俳優さんになりました。
その後のお話しは次回のお楽しみに、
よろしくお願い申し上げます。

羽岡仁

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