友だち2

昭和という時代が、よく語られたり、映像になっていたりしています。
私たちが昭和を生きていた頃、明治や大正をレトロと呼んだように、今や昭和はレトロとなりました。
少年期、青年期が昭和だった私には、平成になって変わったというより、子供たちが青年期に向かって生き始めた時、何かに必死になって生きていた自分から、その自分を外から見てきた自分の方に重心が移り始めたとき、というように感じています。
勿論、熱は消えてはいませんが、その熱さが、炎と燃えては消え、また燃え上がる、というようなものから、地熱のように深いところでずっとしぶとく熱い熱に、変わってきたように感じているのです。
10年ちょっと前のある日、ビクターから電話がかかってきて、2ndアルバムのCDを出す、という内容で、若い担当ディレクターからのものでした。
そのアルバムの中に、「朝にめざめよう」という曲があるのですが、その中の新宿が、まさに今となっては昭和レトロそのものだったように思います。
ある日、ちょっと虫の居どころが悪かった私が、仕事を終えて、例によってバーに行くと、何かの拍子で隣にいた男と口論となり、それが熱くなって口喧嘩になり、その場で取っ組み合いになってしまったことがありました。
殴ったり取っ組み合ったり、床に転がったりしているうちに、ふいに相手が止まり、「気に入った、ウチの事務所に来ないか」と言いました。
その瞬間、お互い喧嘩の気がスーッと消えて、乾杯という事で決着しました。
黒田征太郎でした、今回は敢えて名前を呼び捨てにして、その頃の空気感を書くことにします。
黒田は私よりずっと年上でしたが、「友だち」になりました。
その日と前後して、三上寛と気が合い、お互い仕事の後などに、よく会うようになりました。
三上はその芸風とは真逆の穏やかな男で、チビチビ飲みながら、独り言のように「それからなぁ、ジン」と話し、酒が回ってくるとしゃべっているうちにスルッと津軽弁になり、工藤勉のシャンソンのように、何言ってるんだかよく分からなくなったりしました。
それがとても心地良くて、今思えば、私は三上にとても癒されていたように思います。
そしてある日TBSでの仕事を終えて
一木通りに出たら、「おーい、ハネオカー」という声が聞こえてきて、そっちを見ると、征太郎が近づいてきて、「仕事終わった?」と訊くので「終わった」と言うと「行こう」と言ってスタスタと歩き出し、近くの店のドアを開けて私を入れました。
するとカメラマンが、前でポーズをとる何人もの集団を撮っていたところでした、黒田はふいに私を引っ張って1番前の主役とおぼしき人物の隣に腰を落として座り「ハィ、チーズ」パシャ!となりました。
拍手があり、立ったところで征太郎が「こいつ友だちのハネオカジン、こっちは友だちの宇崎竜童、お互いによろしく」という事で握手して、乾杯となりました。
そこは、宇崎竜童の店の開店お披露目の場だった訳です。
翌日のスポーツ紙に大きくその時の写真が載って、1番前に宇崎竜童、黒田征太郎、そして私が並んでいました。
宇崎さんご夫妻とはそのずっと後、私が作曲した郷ひろみのレコーディングの際、ご夫妻でスタジオに遊びに来て再会しましたが、お互いにまったく別人になっていました。
また時間を戻せば、その後征太郎は、「新宿に行こう」と言って、二人で新宿に行き、馴染みの店で、何故かずっと笑い合って酒を酌み交わしました。
また一度はこんな事がありました。
すっかり寝静まった真夜中に、突然鳴り響く電話(黒電話)に出ると、「ジン?オレだけど出て来ない」と征太郎、私「どこに居んの?」征太郎「今、お前の話で盛り上がってんだよ、岡林(信康)んちにいるから出て来ない?」私「もしかして京都?」
征太郎「そう、待ってるから」
私「夜中の2時だよ、飛行機も新幹線もないよ」
征太郎「そうだよなー、ええやん、待ってるで〰!」(関西人)
という具合で、青春を謳歌?嘔吐?していた昭和でした。
この時代の場面に登場する人物たちは、有名人かもしれないけど、やってることがよく分からなかったりする人たちも多くて、思想信条も、大日本帝国万歳、のとんでもない右から、マルクス、レーニン一直線でトンガリまくった左までいて、口角泡を飛ばして、時には取っ組み合いになりながらも、お互い呼び捨てで名前を呼び合い、真反対の者同士が、時には相手の話に「そういうとこって、おんなじなんだよなぁ不思議に、結局人間なんだよ、オマエもオレも」と涙と笑いで酒を酌み交わしたりしていました。
また不思議に右も左も東映任侠映画が好きだったりして、何故かその頃、日活の小林旭の台詞「~だぜ」が流行り、何を言っても語尾に~だぜ、がついて、盛り上がっていた時期があったりしました。
本当に子どもだった訳です。
いや、せめてみんなと会う時は子どもでいたかったのかもしれません。
でも、どこかで、みんな何がホントかを懸命に探していた、求めていた。
自分は何処へ行かなきゃいけないのか、何をしなきゃいけないのか、答を探して必死にもがいていた。
自分もそうだから、理屈じゃなく
そこには、確かに後のない、絶壁に立たされた者同士の友情があったと思います。
お互いの厳しさを、たとえ違いがあれども、何も言わずにそっと慰める優しさがあったように感じています。
近頃の殺伐とした様々な対立を見るたびに、あのゴチャ混ぜで、よく分からない、複雑怪奇な割に単純な友情の感覚がふと蘇ってきたりします。
立場が違っても、そりゃそうなるわなぁ、みたいな気分の中に、戦後の焼け跡から、何とか立ち上がって、生き延びてきた人たちの、お互い必死に生きてきた者同士という共感の空気が、あの街には、いや日本中のあの街この街に、まだ漂っていた時代だったのかもしれません。
それは、たとえ対立が起きても、
昭和の上方漫才、平和ラッパ、日佐丸のギャグ「あんたもアホや、わたいもアホや、ほなサイナラ」的な落ち着き方ができた時代でもあったのでしょう。
やっぱり、人間、基本、「オマエは全然間違ってるけど、ホントに馬鹿馬鹿しくてイイ奴だよな、乾杯!」
なんじゃぁないでしょうか。
そんな気がしてならない今日この頃です。

それでは次回、
またお会いしましょう。

羽岡仁

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