大人の歌

破壊し尽くされた街、無惨な民間人の大量殺戮、そこに止まらず、
ロシアのウクライナ侵略はついに指導者が核兵器使用をチラつかせるところまできてしまい、第3次世界大戦の危険すら出てきました。
日本に対してもロシアは北海道の領有権を主張し始め、大規模な軍事演習を強行しました。
これに対して日本も、これまでのようなのんびりした構えは見直しを迫られる事態となってきたようです。
さて、1973年、私は複数のレコード会社からお誘いをいただくことになりましたが、最初に声をかけていただいたビクターは具体的なタイムスケジュールまで作って、しかもそれは、デビューシングル発売にとどまらず、アルバム発売まで予定したスケジュールになっていました。
さらに音楽雑誌には「ゴールデンボーイ」のタイトルで、次のスター間違いなし、と書かれたりもして、当時住んでいた新宿のアパート近くの大衆食堂ではオマケのお惣菜をつけてくれたりで、まことにささやかな我が世の春が巡ってきたようでした。
そのように始まった「プロ」の生活は、内面的には私に2つの相容れない人生の道のどちらを生きていくのか、という選択を迫ってくる日々となりました。
一つの道は売れなきゃいけない、という差し迫った道。
もう一方の道は、何の為に生きていくのか、という人生の意味を求める道、この二つの道の間で揺れ動く事になりました。
「人生」を歌って生きていこうと思って飛び込んだプロの世界で、まず生きていくためには、売れなきゃいけない、二つの道を一つにしようとして作っても却下されるばかりで取り上げてもらえず、
かと言って売れ線という歌は嘘っぽくてどうもしっくりこない。
それでも発売ローテーションは確実に巡ってくる、
それを人に相談しても、「考えないで作ればいいんだよ」が大かたの意見で、自分以外の人たちを見ると、みんな上手いなぁと思うばかりで、自分にはほど遠い。
見まわしてみても参考になるものなど見当たらない。
ビートルズやアズナブールを追いかけていた頃はワクワクできたのに、自分が作るとなると苦しくなる一方で、出口が見えない。
そんな日々の中で、TBS ラジオ藤岡琢也さん司会の番組「ハニーサウンドオンライブ」という番組から、シンガーソングライター特集に呼ばれて出演することになりました。
アメリカからジョージベンソン、フランスからジルベールベコー、
そして日本から羽岡仁、という事で、番組プロデューサーからは新曲を持ってきていいのと、全曲TBSホールでフルオケのバックで録音しよう、という夢のようなお話でした。
ベンソンさんとはスケジュールが合わず、お会いできませんでしたが、ベコーさんとはお会いできて非常に気さくに英語でお話ししてくださって、バックのメンバーとも打ち上げまでご一緒させていただきました。
ただ、このキャスティングは釣り合いが取れなさ過ぎじゃないか、
米、仏は大スター、それに対して日本は何で私?と誰でも思います。
そこでプロデューサーの岡本さんに聞きました。
すると岡本さんは「だって大人の歌作ってるの君しかいないからしょうがないじゃない、他の2人は大人の歌ばかりだから、それこそ釣り合いがとれなくなっちゃうじゃない」と言われました。
オンエアは驚きがあったりして、それなりの反響をいただきました。
さて、オンエアされた後レコード会社の担当Drは「素晴らしいじゃない」でした。
そしてその次に出てきた言葉は、「ただこれをレコードにはできないけどね」でした。
今の私であればこのご意見に全く同意しますが、当時の私にはよく理解できませんでした。
やはり人間のこと、世界のこと、社会のことを、それなりには理解していたのかもしれませんが、深いところまではまだよく分かっていなかったのだと思います。
それは、私が本当の意味で人生を深く知っていこうとする道のりの始まりだったように思います。
物事の表面を見ていて、その本質が見えていなかった。
その私を、少し本質が見えるように世界に育んでいただいた今の想いを書かせていただいた新曲「素晴らしい人生(とき)を」
是非YouTubeにてお聴きください。
それはさておき、このDrの反応から、事態は大きく動いていく事になりました。
この後の動きとは?またもや次回に続けることとさせていただきます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

羽岡仁

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