若さ

参議院選挙の結果を見ていたら、思わぬ人の顔が出てきて、とても懐かしく、当時が思い出されてきました。
最近はお会いする人の名前が出てこない、なんていう事がしょっちゅうあって、俺はもう認知症になっちゃったんじゃないか?
と思う事もしばしばで、かかりつけ医院の先生に訊いたら、「まだ大丈夫です、けどね」と笑って言われた後、診察を終えて帰宅したのですが、最後の、「けどね」の後の言葉は何なんだ?と気になりながら、道を間違いながら帰宅しました。
同じ年の同時期の発売でデビューした人たちは、レコード会社は違っても、以前お話ししたテレサテンさんも含めて、たとえ一回しか会ったことがなくても、すごく印象が深く、特別な感情が今だに残っていたりします。
私がまだ30代の頃、宍戸錠さんがテレビでそれと同じような事をおっしゃっていた事があって、それを見ていた私は、話盛ってるよなぁ、と思った記憶がありましたが、参議院選挙の結果を見た時、その時の宍戸さんのお話を思い出して、思わずフッと笑いが出てしまいました。
その人は中条きよしさんでした。
東海道線沿線の地方都市(どこか忘れた)での、生放送かなんかだったと思いますが、あまり言葉を交わさなかったけれど、何かのきっかけで心が開きあえて、今思えば中条さんは少し年上で、しかもあちらは演歌で、ジャンルも全然違っていましたが、瞬間で仲良くなって、番組が終わる頃にはすっかり友だちになっていました。
その後大分経った頃「うそ」がだんだん売れてきて、その年の年末になったら殆どの歌番組に出ていました。
また、私の記憶では何度か仕事でご一緒した記憶がある人で、この人も一瞬で友だちになっていました、下田逸郎さん。
あの時の顔が時折フッと思い出されて、心がフワッと広がって、ニヤッとしてしまったりすることがあります。
彼とも話した事は他愛もない、ギターがどうの、とか、あのコードいいねぇ、みたいな事だったと思いますが、心を開き合えた感覚は今でも残っています。
今思えば、下田逸郎さんはデビューは私よりも少し前ですが、お二人に共通していたのは、何かお互いに、自分と同じにおいを感じたという感覚が残っています。
3人に共通していたのは、心の傷だったのかもしれません。
また私よりも先にデビューしていた人ですが、いつも地方局の、変な番組で一緒になり、そのうち挨拶するようになって、気がついたら私は「お兄ちゃん」と呼ばれるようになっていた、荒井由実さん。
当時各テレビ局はオーディションを受けるシステムになっていて、特にNHKはオーディションに受からないと番組出演ができませんでした。
その私にとって、初めてのオーディションの控え席の隣の席が、何と荒井由実さんでした。
彼女は何回目かで、「全くわかってないんだから」とブツブツ言っていたので、私はそんなに離れていない審査員席の、1番上の席に座っておらられた藤山一郎先生が気になっていました。
なので彼女を無視して下を向いていたら、彼女は面白がって、私に話しかけてきました。
私はちょっと嫌な予感がありましたが、オーディションが始まるとその予感が的中しました。
「このチャンジー(じいちゃん)バンド最悪なのよ」
その時、バンドメンバーがチラッとこちらを見ました。
「あ痛〰!やってくれちゃったよ、もうダメだ、落ちた、番組決まってたのに〰!」
そして歌い、オーディションが終わった後、彼女は、「お兄ちゃん私ねぇ、結婚するの、松任谷さん知ってる?」私「うん、まぁ、おめでとう」
心の声「はぁ⤴︎、ワガママだな〰︎このッ!知るか!どうしてくれるんだよ!」
最後は「私番組決まってるから、次は受かるのよ、お兄ちゃん受かってるから大丈夫だよ」と言い、手を振って別れました。
私は受かり、彼女は落ちていました。
しばらくして、東芝レコードが、「新しいジャンル、ニューミュージック、ユーミン」として大々的に売り出しました。
つまりニューミュージックという名称は、東芝レコードが荒井由実のために作った、キャッチフレーズだったのです。
当時はフーン、と思っていましたが、今思えば、彼女にとって、私はすごく親しい間柄でもないし、かといって、何度か仕事で会っていて、話もできない相手でもなく、少し年上の私は、彼女なりに、最後のワガママを許して貰える相手だったのかもしれません。
あの時、彼女は歌を楽しませる側になる決心をして、歌を楽しんだ時代を後にしたのではないかと感じています。
まだ音楽の中では、みんなあの頃の「若さ」を生きているようです。
次回を楽しみに、
よろしくお願いいたします。

羽岡仁

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